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気晴らし細論

2021年06月の記事

ブロークンハートをスマッシュする情念 『るろうに剣心 最終章 The Beginning』 感想第二弾


どうも、こんにちは。

前回『るろうに剣心 最終章 The Beginning』(2021)について長すぎるくそつまらん感想文を綴ったわけですが、未だに毎日Beginningのこと考えてるから追加で感想文書いていい? てか書くね。

前回何の工夫もなく駄文を書き連ねてしまって反省したので、今回は言いたいことを大まかに3つに分けました。とりあえずBeginningは2回鑑賞(副音声上映は未鑑賞)、パンフレットの類や映画雑誌など未読、WEB公開されているインタビュー記事は大体読んだ。そんな現状でのBeginning感想第二弾。例によって例のごとくネタバレありまくりです! ご注意あれ!



情念とラブシーン
とあるインタビュー記事で、Beginningはストレート時代劇として「情念」を表現したかったと語った監督。実はラブシーンをもっと濃厚にする案もあったんだけどね、となかなかの爆弾を落としているのですがその詳細は回収されることなく、結果的にバランスを取って今の形に落ち着きました、と次の話題に移っています。おい、インタビュアー、そこもっと掘り下げろ。聞き捨てならんぞ。

剣心と巴の肉体関係については、漫画では直接的な表現はなし。OVAでは巴の着物がはだけたり、布に包まる二人の姿があったり、何が起きたかは一目瞭然だけどほのめかしの範囲に留まっています。それを映画ではキスシーンまで描いたわけだから、かなり踏み込んだほうでしょう。さらに濃厚に描くとなると『るろ剣』という枠からはみ出るので、結果的に絶妙なラインを攻めたと思います。

個人的には、幕末の人斬りと仇討ちの女の悲恋という側面ではドロドロに絡んでくれたほうがよりどうしようもなくて楽しいんだけどね。しかも佐藤健と有村架純でしょ。美と美の共演による儚くも激しい情愛。最高じゃん。めちゃくちゃ見てみたい。でもそれをやってしまうと『るろ剣』ではなくなるのでここはぐっと我慢。ていうか、このキスシーンは予告映像に情報出しすぎ問題のひとつなんだよな。あれは本編観た人のためのサプライズであるべきじゃない?

また、物語の終盤で巴が床に転がった大仏の首を見る場面でも情念を表現しているらしいのですが、これまで宗教色のほとんどなかった作品でいきなりそういうことされてもな。志々雄はちょっと宗教くさいけど。 原作には安慈という元僧侶のキャラクターがいるものの、映画ではほとんどフィーチャーされませんでした。Beginningはこれまでとは毛色の違う作品という位置づけなんだから、もう少し仏教的なものが生活に根付いてる描写があればよく伝わったんだけど、初見の時は正直ちょっと解釈に迷いました。このあたりは弱かった。監督チキったな。というか情念を表現したいなら監督が自分でオリジナルの作品書いたらいいのに。



斎藤と抜刀斎
1作目で「人斬りが斬らずしてどうやって人を守る?」と言っていたり、明治に入ってから剣心が不殺を信条にしていることがさぞお気に召さない様子の斎藤。正直、なんでそこまで目の敵にしてるんだろうと思っていたのですが、Beginningでかなり腑に落ちました。前回記事で言及した冒頭の対馬藩邸のシーン然り、ラストの鳥羽伏見の戦い然り、剣心が無慈悲に人を斬り殺したその凄惨な現場を斎藤は散々目の当たりにしてるわけですから、久々に再会して「もう人は斬らない」「こんな刀(逆刃刀)でも充分人を守れる」なんて言ってたらそりゃあ気に入らないよね。どの口が言ってんだよって話だ。

剣心は明治という時代に変わったことで区切りがついたと思っています。でも警官である斎藤にしてみれば幕末も明治も地続きで何も変わってないのかもしれません。斎藤と剣心が再会するのは明治11年。史実では斎藤は前年の明治10年に勃発した西南戦争に参加しています(西南戦争については『るろ剣』の中では描かれてない)。明治といってもまだまだ治安は不安定で、簡単に平和を維持できるような状態ではないからこそ、剣心の言葉に憤慨しているとも言えます。

また、Beginningで新撰組の沖田と剣心が交戦する場面がありますが、斎藤は人斬り抜刀斎と呼ばれた時代の剣心とは戦っていません。だから戦いたいっていう気持ちは絶対あるよね。沖田と剣心が睨み合う場面に駆けつけた時には「尻尾を巻いて逃げるのか」なんて超わかりやすい挑発もしてさ。鳥羽伏見の時も「これで終わりだと思うなよ」とか言ってたし、斎藤って意外とわかりやすいのかもしれない。

ちなみに上記の池田屋の場面、桂が無事だと知ったからか一筋の涙を流す剣心にもびっくりしたけど、「尻尾を巻いて逃げるのか」と言われた時の剣心の今にも斬りかかりそうな禍々しさは、感情の振り幅どうなってんの? と思った。余談ですが、佐藤健って台本にないところで泣いて監督やスタッフをびっくりさせるらしい(逆に台本に書いてあると泣く気が失せるんだとか)。あまのじゃくが過ぎる。



ブロークンハートをスマッシュ
ONE OK ROCKによる主題歌『Broken Heart of Gold』が完璧にマッチしたエンディングは鳥肌ものです。サビで散々っぱら出てくる「I smash my broken heart of gold」というフレーズがまさにこの映画の主題であり、監督の表現したかった情念を端的に表しているのではないかと思います。監督からワンオクに細かい注文はきっとしてないはずだけど、ここまで合致するなんてさすがプロフェッショナル。

「heart of gold」は心優しい人、思いやりのある心という意味です。つまり「I smash my broken heart of gold」は、すでに壊れた(壊れかけた)思いやりのある心をさらに砕く。自ら粉々にしてしまうということになります。人に傷つけられてるんじゃないの。自分の意志でスマッシュするの。歌詞の内容を剣心の心情と照らし合わせるならば、人を斬り続けてきて自分は大事な何かを失った、どこにも逃げ場がない、痛すぎてもう終わりにしたくなる、地獄だ。って言ってるんですよ。もうボロボロなんだけど、本当は人を斬りたくなんかないんだけど、それでも心を鬼にして刀を振るい続ける、地獄を這っていく。そういう決意が「I smash my broken heart of gold」なのよ。

劇中にも、心を鬼にして刀を振るうという部分に重なるセリフがあります。巴が剣心を祇園祭に連れ出し、平和のための戦いなんてあるのか、人を斬らなければならないあなたもこの戦いの犠牲者ではないのか、と問う場面にて、剣心は祇園祭の山鉾巡行を例えに出します。稚児が太刀を振るって注連縄を切らなければ山鉾は進むことができないように、時代を進めるには誰かがその役割を引き受ける必要がある。ただそれが自分だっただけだ、と。剣心は混沌としていく社会を憂いて長州藩についたので、元来、人を斬ることに快感を覚えるタイプではないでしょう。それなのに新撰組の沖田に「血も涙もない」と言わしめるわけだから、人斬りを始めた時からすでに自分の意志で優しい心をブロークしてたんだろうね。

では曲の話に戻ります。Cメロからのラスサビが曲としての最大の盛り上がりなのですが、ラスサビの入りは歌声のみです。他の音は一切ありません。一瞬の間からのドラム、その後にギターとベースが入ってくるという畳み掛けがものすごい。珍しい構成ではないと思うけど、むしろよくある手法だと思うけど、本当にね、映画館の音響で聴くとすごいよ。1サビ2サビに対してラスサビの音の増え方の迫力すごい。全体としては落ち着いた曲調なのでまたそのメリハリがな。一瞬無音になるところが曲中に何度かあって、その溜めというか、間のようなものがぐっと胸に迫ってくる。ラスサビ入りは先述したように完全な無音ではなく、歌声を残して他の音がなくなるという微妙なズレがまた憎い。

以上、現時点で思っていることでした。また発見があったら第三弾書きます(どんだけBeginning好きなん?)。





舞台挨拶の映像がYouTubeで解禁されてたので見てみたのですが、沖田を演じた村上虹郎の堂々たる佇まいに恐れおののきました。話し方が歳食ってるのよ。「ようやっと」とか「感無量です」とか、おっさんというとちょっと語弊があるけど、24歳の話し方じゃないのよ。縁役のまっけんと同い年なのに全然違う。佐藤健よりも江口洋介よりも北村一輝よりも武士を感じた。あと池田屋事件の時、剣心と遭遇した沖田が「何ですか、あなたは」って言うの最強におもしろい。

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手が使えないなら口を使えばいいじゃない 『るろうに剣心 最終章 The Beginning』


どうも、こんにちは。

2年間心待ちにしていた作品なので本日の記事は超長いです。先に言っておきます。



るろうに剣心 最終章 The Beginning(2021)

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幕末の京都。緋村剣心(佐藤健)は長州藩の桂小五郎(高橋一生)に剣術の腕を買われ、暗殺者として彼の下で働いていました。血も涙もない人斬り抜刀斎として恐れられる一方、人斬りの現場を目撃され仕方なく側に置くことになった雪代巴(有村架純)との交流によって、剣心は平和のために人を斬るという正義に迷い始めます。シリーズ完結となる5作目です。



しつこいほど繰り返しておりますが、何度でも言います。映画『るろ剣』シリーズにおいて観るべきはアクションと剣心が憑依した佐藤健(のビジュアル)である。それは今回のBeginningも同じです。作品全体の感想は山ほどあるんだけど、おそらくBeginningを観たほぼ全員の総意であろうことをまず言わせてくれ。


冒頭の対馬藩邸のシーンが最高。


何事も最初が肝心だということを『るろ剣』シリーズのスタッフはよくわかっている。冒頭にいつも印象的なアクションを持ってきて一気に引き込む手腕はさすが。シリーズ5作目となるBeginningの剣心は現役の人斬りなので、流浪人になり不殺を誓った剣心(1〜4作目)とはまったく別人だということを示すため、冒頭にインパクトのある殺陣を持ってきたのだとアクション監督がおっしゃっていました。というわけでここからネタバレ全開なので、まだ本編をご覧になっていない方はご注意ください。





後ろ手に縛られ、周りを敵に囲まれた四面楚歌状態でスクリーンに登場する緋村抜刀斎at対馬藩邸。そこらへんのボンクラならあとは嬲り殺されるのを待つだけの完全なる詰みですが、抜刀斎はニンジャアサシンなのでここから抜け出すことなど赤子の手をひねるようなもの。まずは不用意に近づいてきた輩の耳を噛みちぎっていっちょ怯ませ、体当たりと蹴りで敵を散らすと、おもむろに刀の柄を咥えます。


首をひねって鞘から抜刀するその凄まじい色気。


開始早々、ほんの5分足らずでハイライトシーン。邪心しかない見方しててごめんな。何はともあれ、この口に咥えた刀で三人くらい秒殺。一気に劣勢に傾いた対馬藩士たちがやべえやべえと動揺する中、絶命した敵の刀の鋒でサクッと器用に縄を解き、あれよあれよと言う間にその場の全員を斬り捨てる。的確に急所を狙う必殺仕事人。まったく無駄のない動き。惚れ惚れするぜ。ていうか抜刀斎、顎の力、強いね。

ちなみにこのシーンについてのアクション監督のお言葉「手が塞がれているので、足の指で掴むか、口で咥えるかですよね」っていうのが手練れの剣客の思考で笑った。素人考えなら、まずもってどうにか手の拘束を解こうとするもんね。でもこれがまさに剣心の思考そのもので、剣心ほどの実力者なら手が使えなくても人を殺せるということです。腕の拘束は焦って解く必要がないから、口に咥えた刀で敵を減らしながら、その流れの中のちょうどいい頃合いで解いて、自由になった手で暗殺を完了させる。だから動きに無駄がない。

さっき邪心しかないって言ったんですけどね、冷静になってよく考えたのよ。漫画やアニメならいざ知らず、真面目な実写映画で刀を口に咥えるという絵面のインパクト、佐藤健のその所作に色気を感じたのはもはや言い逃れすまい。でもそれだけじゃなくて、口に咥えた刀でも人を殺せてしまうほどの剣術の腕、それを敵に囲まれた絶体絶命の状況でやってのける余裕、流れ作業よろしく次々と人を斬り殺していく迷いのなさ、この狂気としか言いようのない一切合切がつまり色気なのよ。のちに劇中で桂が語る「長州藩の狂気の急先鋒」たる人斬り抜刀斎の姿そのものです。剣心のやってることは現代でいうとテロリストなんだけど、殺陣が美しすぎてため息が出ちゃう。

狂気つながりでもう一つ言わせてもらうと、この時点において対馬藩内は佐幕派と倒幕派に分かれていたのですが、上記の通り冒頭で剣心が佐幕派を全滅させました。これはおそらく桂の指示による暗殺です。そしてこの対馬藩邸のシーンは映画オリジナルです。問題は、史実によると桂は池田屋事件の際、対馬藩邸に匿ってもらって命拾いしているということです。他所の藩の敵対派閥を皆殺しにして同調派閥の人と仲良くしてる桂、控えめに言ってもサイコパスじゃない? 吉田松陰の言葉の引用然り、このあたりは非常にすばらしい追加設定だと思います。



では次にビジュアルの話です。人斬り現役時代の若かりし剣心を演じるため、Finalの撮影から約2週間後に行われたBeginningの衣装合わせの日には体を絞った状態で現れたという佐藤健。本当に細いの。線が細いの。もちろんポニーテールにしてる(1〜4作目よりも髪を結う位置が高い)というのも若く見える演出のひとつだけど、線が細いだけで少年らしさが出る。スタッフから注文されてないのに体を絞るって、それだけこの作品にかける思いが強かった証拠でしょ。さすがに14歳には見えないけど、10代には余裕で見える。映画『るろ剣』シリーズでは剣心の年齢は名言されてないので、漫画より少し上で18、9歳っていう設定でも全然ありだと思います。そのほうが巴とのラブストーリーにも違和感がないし。

そして巴に関しては賛否両論ありますが、有村架純ちゃんの演じる巴は所作がたおやかで本当に美しい。漫画の巴よりも表情があってかわいらしかったので、私はすごく好きです。愛想はないけど思いやりがあるやさしい人なのはよくわかる。そのバランスが絶妙でした。



さてここからようやく作品全体の話です。映画、漫画、OVA、それぞれを比較してどうこうというのは他の人がやると思うので、私は映画オリジナルでよかった点について述べたいと思います。1〜4作目までは原作漫画の大体5、6巻分の内容をそれぞれまとめてる感じで駆け足感が半端なかったのですが、5作目に関しては漫画では2巻分くらい。だからすごく丁寧に描きこまれています。

例えば、長州藩が京都で利用している旅籠・小萩屋の中がすごく作り込まれていてよかった。藩邸や屋敷のように、襖、襖、襖で空間が細かく区切られている建物と違って、小萩屋の中心は吹き抜けになってて空間がひらけています。これによって画面の中にたくさんの人がいて、それぞれが会話して動いて生きている生活感があります。この時代の日本家屋の階段ってすごく急だから上り下りが窮屈そうで、細かいけどそんな点もすばらしい。だって、巴が階段を上がる時に着物の裾から見えるふくらはぎの色気。これだよ。これが着物の品だよ。さっきから色気ばっか言ってる。

また小萩屋の中には川から引いた用水路が流れてて、そこから水を組むシステムになっています。時代劇でたまに見るけど、個人的にすごく好きなんだこの造り。川端(かばた)というのとはまた違うのかな。剣心が汚れてもいない手をやたらと洗うシーンがちゃんと入ってたのもよかったです。映画の剣心は無口で心情がわかりづらいけど、血の匂いが取れなくて病んでるのが伝わる重要なポイントなので。

OVAの追憶編にあやかったのか、草花や風景をよく映して四季を描写している点は映画でも同様でした。それにプラスして音の演出がとてもよかった。それこそ剣心が人を斬って帰ってきて手を洗ってるシーンでは剣心と巴の会話の後ろで水の流れる音がずっとしてたり、二人が剣心の部屋で会話してる場面では風の音や鳥のさえずりが聞こえたり、足が畳を擦る音だったり、小さな生活音ひとつひとつが時代劇の情緒を醸してて最高。ぜひ音量が大きめの映画館で観ることをおすすめします。映画館によってシアター内の環境やスピーカーの音量がかなり違うので。お気をつけあれ。



Beginningは時代劇でラブストーリーで情緒たっぷり、号泣必至とか言われていますが、当方、感性が芋な人間なので正直言って剣心と巴のラブストーリーは特に何も思いません(え?)。

親や恋人の仇を愛してしまうというのはよくある話だし、最愛の人を殺してしまったことがきっかけで二度と人を殺さないと誓うというのも、幕末に限らず万国共通でありえるシチュエーションです。ただ剣心のすごさは、巴を斬ってしまった後も3〜4年は人斬りを続けてるというところな。それはつまり自分のやっていることは新時代を開くためっていう信念がブレなかったからだし、そして「あなたはたくさんの人を斬るけど、その先の未来で斬った人の数よりも多くの人を救う」っていう巴の言葉を裏切らないためでもあるでしょう。

だからこそ、鳥羽伏見の戦いが終わった後に発した「来たか。新しい時代が。やっと」というセリフの「やっと」にものすごく重みがあって、斉藤一に「これで終わりだと思うなよ」と言われて無言で刀を地面に突き刺すというのも、俺はもうここで降りるぞっていう強い意志が感じられる。

幕末史って超複雑で、各藩の中でもいろんな思想や派閥があって、ある時期までは尊王攘夷論が強かったのに途中で開国に方針転換したり、藩としての立場なども忙しなく変化します。剣心が属する長州藩だって、最終的には幕府を倒して新政府の中枢に食い込んだわけですが、一度は天皇のおわす御所に攻め入るという罰当たりの極みをやらかし(禁門の変)、朝敵として日本の中で孤立、同時期に外国からも藩都の萩を攻められて壊滅状態に陥りました。何かひとつ違ってたら長州藩が朝敵のまま終わる可能性もあったわけです。

Beginningではちょうど長州藩がバチボコにやられて身を隠す時期が描かれて、その後、剣心は巴を失っても信念を曲げずに人斬りを続けて幕府に勝ったわけでしょ。剣心も長州藩も、その執念すごくない? 先述したように剣心のやってることはテロリストだし、佐幕派と倒幕派の戦いは内戦だし、最終的に幕府を倒すのはクーデターなんだけど、幕末の、少なくとも日本人同士の争いは、人種差別でもなければ宗教戦争でもなく、みんなが日本の未来を思ってのことなんですよ。辰巳たち闇乃武にしても、民の暮らしを守ってきたのは幕府で、幕府が倒されたら社会がめちゃくちゃになってしまうから俺たちは幕府を守るんだって考えもよくわかります。

そういうことを思うと本当に胸がいっぱいになっちゃってさ。剣心と巴のラブストーリーには特に新しい発見もなかったし泣きもしなかったのに、まさかワンオクのエンド曲を聴きながら維新志士や幕臣の信念の強さに思いを馳せることになるとはね。Beginningを観てこんな気持ちになるとは思わなかった。わたしの情緒どうなってんの?



非常に長くなりましたが、最後にどうしても気になってツッコまずにはいられない部分が三つほどあります。

まず池田屋に向かって走る剣心が狭い路地の角を曲がる時にスライディングするのが二回あったのですが、あれは何だったのでしょうか。シリアスな場面なのに笑うところなのかどうなのか迷いました。次に闇乃武との戦いで剣心に仕掛けられる罠がちょっとお粗末です。切り株が上から降ってきたり、木が倒れてきたり、昔の無茶苦茶なバラエティか。え、やめてやめてって焦ったもんね。闇乃武との戦いはシリーズを締めくくる最後のアクションシーンなのに、全体的にエモーショナルに振り切りすぎた気がします。そして三つ目。予告で場面映像を出しすぎた感も否めません。大事な場面はおおかた予告映像で出てしまっていた。以前の記事→改めて観返したら剣心の大人の余裕がすごかった で言いましたが、奇兵隊員オーディションでの抜刀術も、あれは公開前にテレビで出していい映像じゃなかった。おかげで映画館で観たときにはもう驚きがありませんでした。悲しい。

でもこれから何度も観返しては佐藤健の動きやばいって一生言い続けると思う。

青春なのでやりたいことやったもん勝ち 『スケート・キッチン』


どうも、こんにちは。

自分はまったくやらないくせにどういうわけかスケボー映画が好きなわたくしです。思えばこのブログの最初の記事もスケボー映画だった(こちら→スケボーブームの始祖はクソガキ(最高)『ロード・オブ・ドッグタウン』)。



スケート・キッチン(2018)

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ニューヨーク郊外に住む17歳のカミール(レイチェル・ヴィンベルク)は、スケボー中の怪我が原因で母親から大好きなスケボーをやめろと言われてしまいます。しかしそれに反発するようにカミールはスケボー好きの女の子たちが集まるスケート・キッチンというサークルに参加し、スケボーにますます熱中していきます。



スケート・キッチンはニューヨークで実際に活動しているサークルで、劇中に登場する少女たちはそのサークルのメンバーだそうです。つまりスケボーシーンも全部本物。正真正銘のスケボー少女たち。フィクションとドキュメンタリーのハイブリッド。最近のスケボー映画ですと『行き止まりの世界に生まれて』(2018)は完全ドキュメンタリーだし、『mid90s ミッドナインティーズ』(2018)も監督を務めたジョナ・ヒルの半自伝的な作品だし、『ロード・オブ・ドッグタウン』(2005)も現在のスケボーカルチャーの始祖の人たちの話だし、スケボー映画はいつもリアルとともにあるようです。

さてイメージとして、スケボーといえば少年。悪ガキ、チンピラ、そんなレッテルを貼られても何のその。スケボーに魅入られ、のめり込む少年たちの姿がいつもそこにあったわけですが、ジェンダフリーの進む現在、ついにスケボー少女の物語が発信される世の中になったということなのでしょう。でも今日は別にジェンダーとか差別とかそんな話がしたいわけじゃないんですよ。彼女たちがとにかくキラキラしてて眩しいのよ。言いたいのはそれだけなのよ。

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上半身はスポーツブラみたいな、ぺらぺらのハーフトップしか着てなかったりするんだけど、バキバキの腹筋がこんにちはしてるので露出度が高いのに全然軽薄な感じはない。ボトムスにはショートパンツやハーフパンツ履いちゃったりしてるけど(ショーパンでスケボーやったら転けた時に擦りむいてめっちゃ痛そうとか思うけど)不思議と子供っぽくもない。とにかく元気100%。輝いている。こんな健康的な脚出しへそ出しを見ていると、なぜ自分はこのファッションをやってこなかったのだろう、なぜ何の疑いもなくお腹を隠してきたのだろう、いやむしろ今からやってもいいのでは? という危険思想にすら至りそうになるのです。

なんだろうな、この、彼女たちの無敵感。スケボー映画じゃないけど、浮き草たちはきれいな服を手に入れた! 『浮き草たち』 を観た時と同じような気持ちになってしまった。自分がこういった経験をすることはもうないのだという若干の切なさがこみ上げてきた。こちとら、もう、アラサーなので。でもまあこの夏はとりあえずハーフパンツくらいは履こうかなと思っています。きれいめハーフパンツ、流行ってるしちょうどいいだろう。



ちなみに、本作を観ていてひとつの疑問が生じました。スケボー集団にはなぜ必ずカメラ担当の子がいるのでしょうか。スケート・キッチンの中にはルビーが、スケート・キッチンとバチバチしている男の子の集団にはデヴォンがいました。さらに『行き止まりの世界に生まれて』ではビンが、『mid90s ミッドナインティーズ』ではフォースグレードがカメラ担当でした。そういう決まりでもあるんですか?