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気晴らし細論

2021年01月の記事

明治維新上級者向けムービー 『天外者』


どうも、こんにちは。

三浦春馬はいい俳優。それは間違いない。



天外者(2020)

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江戸時代末期、日本が攘夷か開国かで揺れ動く中、若き薩摩藩士・五代才助(後の友厚、三浦春馬)は遊女のはる(森川葵)と出会い、「遊女でも自由に夢を見たい」という彼女の思いに共鳴します。誰もが夢を見ることのできる国をつくるため、坂本龍馬、岩崎弥太郎、伊藤博文らと志を共にします。



私は近年の幕末を舞台とした大河ドラマは『西郷どん』も『龍馬伝』も『花燃ゆ』も『八重の桜』も観ましたし、五代さんが出てきた朝ドラ『あさが来た』も観ましたし、その他、幕末に限らず時代劇は好きですし、明治維新に関してもそこそこ知識のあるほうだと自負しています。しかしながら、本作を観るのは歴史に詳しい人ばかりではないでしょう。あんな悲しいお別れをしたんだもの。三浦春馬のファンであれば、幕末や時代劇にまったく興味がないとしても彼の姿を目に焼き付けようと、きっと観るんじゃないかと思うわけです。

ただし明治維新ビギナーにはいかんせん不親切な本作品。あの時代に関する知識がないと完全に置いてけぼりをくらいます。そういう容赦のない作りになっています。また全体的に情緒を無視したスピーディーな展開です。もうちょっと丁寧に描くことはできなかったのか。五代友厚の一代記を描くなら、あと20分長くても許されるよ。私はファンタジーやSF以外で尺が2時間を超える映画は基本許さない主義なんですけど、全然許すよ。

例えば、五代さんが薩摩藩の武士なので、少し知識のある人なら西郷隆盛や大久保利通が出てくるだろうことは想像がつくでしょう。しかし劇中では、この人が西郷さん!そしてこの人が大久保さん! と紹介してはくれませんでした。大久保さんはわかりやく苗字で「大久保さん!」と呼ばれてるシーンがありましたが、西郷さんは「吉之助(隆盛と名乗る前に使っていた名前)」とたった一度呼ばれただけでした。ご両名の登場シーンは少なかったし、それならいっそ登場させなくてもよかった気がするのですが。

そして勝海舟にしても、こいつ、たぶん、そうなんだよな…? って感じでやっぱりちゃんと紹介してくれない。私は ”坂本龍馬と話している、江戸弁の、たぶんそこそこ地位のあるっぽい海軍関係の人” ということで勝海舟だと判断しました。小説なら文脈とか行間を読むみたいなのもわかるんですけど、そんな風に人物の特定を状況判断的に強いる時代劇ってやばくない?(ちょっと、もし勝先生って呼ばれてるシーンがあったならごめんなさい聞き逃しました)

続きまして、坂本龍馬の幕引きがあっけないことこの上ない。史実があっけない終わり方してるんだから道理といえば道理なのですが、三浦翔平が演じて、ダブル三浦ってことで準主役的なポジションなのに、そんな終わり方ある? という雑さ。弥太郎や利助が悲しみにくれているところに龍馬の暗殺シーンが一瞬の回想みたいな感じでインサートされるだけなの。幕末好きなら坂本龍馬が暗殺されたことなんて別に改めて説明されるまでもないんだけど、明治維新ビギナーからしたら何が起きたのかわからないと思う。

また、結核の描写も不親切よね。幕末好きなら、幕臣派であろうとも維新志士派であろうとも、結核についての知識は絶対あるんですよ。なぜなら新撰組の沖田総司も、長州藩士の高杉晋作も結核で亡くなっているからであります。結核のことなんて、先述した坂本龍馬暗殺レベルの基礎知識。だから五代さんが血を吐いた時に妻の豊子に「俺から離れろ」的なことを言うのも、そうだよね濃厚接触するとうつっちゃうもんね、と納得できる。でもね、当時は結核が不治の病だったことも、五代さんが結核であることすらも、劇中でははっきり言ってくれないわけよ。だからその一切合切がわからない人は「えー! なんでそんなひどいこと言うの!」って絶対思うじゃん。しかも五代さんの死因って結核でしたっけ? と観終わってから疑問に思ってググったんですよ。そしたら史実では死因は糖尿病とのことでした。え? なんで結核にしたの?

あと森川葵の演じた遊女はるは字が読めないという設定でしたが、これは甚だ疑問です。まず、はるは丸山遊郭の遊女です。長崎の丸山遊郭といえば江戸の吉原遊郭や京都の島原遊郭などとも並び称される幕府公認の色街です。見世構えや訪れる客を見るに、はるはそこそこ格式のある遊女でしょう。それならお客さんと文や和歌のやりとりもするはずなので読み書きができなきゃ商売にならない。女子教育が一般的でなかった江戸時代において、遊女は読み書きはもちろん、琴や三味線、舞などを習い、かなり教養があったと言われています。吉原遊郭の遊女はほとんどみんな字が読めたらしいですけど、丸山遊郭は違うんでしょうか?

そもそもこの遊郭にまつわる描写は何もかも曖昧でね、遊郭って一応ランク分けがあって、どのランクの見世かで料金体系も大きく変わってくるんですよ。五代さんは見世の女将に貧乏侍呼ばわりされてたけど、そんな貧乏侍が通える程度の見世なのに、はるを身請けしたイギリス人はイギリス艦隊に手を回せるほどの力のある人で、見世のランクというものがイマイチ掴めない。しかも五代さんは金も払わずにはるの部屋を訪れるシーンとかもあったんだけど、そんなことできなくない? つまみ出されると思うんだけど。



さて、気づけばここまでディス一辺倒で来てしまったわけですが、よかったシーンもちゃんとあったんでお詫びに言っておくわ。五代さんが薩摩の生家にて髷を切り落とすところは胸が熱くなりました。ああ、武士の五代才助は死んだんだなって、もう自分は五代家の人間じゃありませんって、そういうことなんだなって。武士が髷を切り落とすのは死と同義であって、死人には手が出せない。また過去との決別、良縁も悪縁も一切のしがらみを断つという意味でもある。つまり五代才助がどれだけ不届者で後ろ指さされようとも、五代家とは関係なくなるから家を守ることにもなる。

そしてこのシーンではもうひとつの覚悟が見えるんですよ。物語の序盤、五代さんは抜刀できないように自分の刀の鞘と鍔を紐で縛ります。これは人を斬らないという強い意志の表れなのですが、その刀を叩きつけて鞘を割り、刀身を出して髷を切るんです。だから五代才助が斬った最初で最後の人物が自分なわけ。武士である自分との決別もそうだし、ある意味では武士の時代との決別でもある。

そんなこんなで、もう二度と帰らない覚悟で薩摩を後にした五代才助あらため五代友厚。なのに「お前は五代家の恥さらしじゃ! 腹を切れ!」とか言ってた兄上が数年後(十数年後?)に「ハハキトク スグカエレ」ってな電報を寄越してきたのはずっこけた。帰宅許すんかい。母ちゃんが息子に会いたがってたから冥土の土産に許したってことなのかもしれないけど、それなら髷を落とすなんてドラマチックなシーンは作らないでほしかった。台無し。



結局ディスってしまった。悪い癖。

パンケーキとコーヒーとおしゃべり。君と僕と建築 『コロンバス』


どうも、こんにちは。

2021年最初に取り上げる作品はずっと観たかったやつ! DVD出てやっと観れた!



コロンバス(2017)

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モダニズム建築の街として知られるアメリカ・インディアナ州のコロンバス。講演ツアー中に倒れ意識不明の建築学者の父を見舞うため韓国からやってきたジン(ジョン・チョー)は、地元の図書館で働く若い女性ケイシー(ヘイリー・ルー・リチャードソン)と出会います。父親との確執から、自分の仕事を差し置いてまでコロンバスに留まることに疑問を抱くジンと、建築の勉強をしたいと思いながらも薬物依存症の母を置いて街を離れる決心がつかないケイシー。二人はコロンバスの様々な建築物を巡り、互いの胸の内を少しずつ吐露していきます。



本作は建築物を軸に進み、BGMが生活音中心だったり、静かで起伏の少ない穏やかな映画なので眠気を誘う危険性も大です。しかしストーリーの本質は普遍的な親子の話です。大げさでなく、感情移入できて、わかりやすい。個人的には『ショートターム』(2013)のような、引き算の上手な映画だと思いました。参考資料→多くを語らない引き算の勝利 『ショート・ターム』

ジンもケイシーも親について話す時は口が重いのですが、人に容易に話せないのはつまりそれだけ胸の内に抱いてるものが複雑で重い証拠じゃないですか。例えばジンとお父さんの間に過去何があったのか、具体的なことは最後まで明かされません。それでもジンの言動を見れば確執の根の深さは想像がつきます。ジンは韓国系アメリカ人とのことなので、おそらくアメリカで生まれ育ち、大人になってから韓国へ移り住んでいます。親から離れて海外で暮らし、連絡もほとんど取っておらず、父の入院の知らせを受けて帰ってきたけど早く韓国に戻りたがっている。

韓国では親の臨終に立ち会わないと親の魂が成仏せず亡霊になってしまうという言い伝えがある、とジンがケイシーに話す場面があります。アメリカで生まれ育ってるからなのか、ジンはその考えがあまり身近でないというか納得できてないようですが、父親を見捨てて韓国へ帰ろうものなら周りから白い目で見られるのは理解していて、世間の慣習と自分の気持ちの間で葛藤しているのがうかがえます。

また、ケイシーのお母さんの薬物依存についてもケイシーが言葉少なに語るだけで終わります。ジンが尋ねるんだけどケイシーは明らかに話したくないのが態度に出ています。しぶしぶ質問に答えるうちに苦しくて涙が出てきちゃう感じがめちゃめちゃ自然で、ケイシー役のヘイリー・ルー・リチャードソンの演技が抜群にいい。ケイシーとお母さんが一緒にいる場面は序盤からたびたびあるのですが、薬物依存については中盤まで一切語られないので普通に仲のいい親子に見えます。

この、一見まるで問題のなさそうな親子っていうのが絶妙なんだよね。お母さんは立ち直って元気に生活してるけど、いつそれが崩れるかわからないからケイシーは自分の夢を追うことができないし、少し見方を変えると、お母さんとの関係が良好だからこそ再発させたくなくて離れられないとも言える。ジレンマというか、薄氷の上に乗ってる緊張感というか。もし親子関係が悪かったらケイシーも自分のことを優先するでしょう。つらいな。

そしてすごく人間的でリアリティがあると思ったのは、人の感情の多面性というか、何事も簡単に白黒つけられない曖昧な部分を描写しているところです。ジンは建築には興味がないと言いながら、コロンバス滞在中に父親の私物である建築関係の本を読んでいたり、憎んではいても少なからず影響を受けています。また、父親の助手(教え子?)であるエレノアとの関係にしてもそう。かつてエレノアに好意を抱いていたジンはコロンバスで彼女に再会し、少し気持ちが揺らぎます。ジンは独身っぽいですが、エレノアは既婚者。大抵のドラマや映画はそのまま不倫するよな。でも本作は一味違いました。そういうところ、めっちゃ信頼できる。加えてこの一連シーンはホテルの一室にて、鏡にうつる二人をカメラが捉えてるところが秀逸。なんと憎い演出。おしゃれすぎる。

本作のメインであるジンとケイシーの関係もね、親戚でも恋人でも上司部下の関係でもない年の離れた異性って存在がまず稀有で貴重ですよね。尊い。あまり近くなくて、だけど建築という共通項があって、適度な距離感だからこそ二人は互いのことが話せた。建築が人を癒す、というようなセリフが登場するのですが、二人がコロンバスの建築物を巡る時間はまさにカウンセリングのようで、生まれ持った文化も家庭環境も自分の置かれた現状も何もかも違うのにどこか共鳴し合っている。建物の前でパンケーキみたいなもの食べてるシーンとか超エモかった。『リアリティ・バイツ』(1994)の「タバコとコーヒーとおしゃべり。君と僕と5ドル」風味でよかった。恋人じゃないけど好意はある、みたいな人と朝ごはんを食べるの、ちょっと憧れるんだよな。



最後に。ケイシーが二番目に好きな建築物を訪問する場面、初めて見た時に感動したから好きなのだそうですが、その肝心の感動した理由を話すところは無音になります。まだまだ浅い私の脳みそでは推察もできず、えー! 教えてよー! となったのですけれども、こういうのがあるから何度も観て解明しようと思うんだよね。この映画はやっぱり演出が憎いわ。先ほど登場人物たちの関係性の話をしましたが、ケイシーと図書館の同僚ゲイブの関係も付かず離れずで絶妙でさ、憎いわ。